松本さんは「何者でもなかった自分」に戻れるか。そう、たけしさんのように。【茂木健一郎】
『ありがとう、松ちゃん』より
■国力とお笑いの力は比例する
例えば、第一原発の問題、リニア新幹線の工事をめぐる問題、自民党の裏金問題……海外のコメディアンなら飛びつくようなネタも、日本の芸人はあまり扱いません。風刺のタネにして権力者を茶化す、それがコメディアンの本来の役割のはずなのに。日本のお笑いはそこまでいけない。人工知能とか生成AIといった最先端テクノロジーの話題にしても、ダウンタウン的なお笑いでは扱いきれないでしょう。
そうやって日本のお笑いがスケールできないこと、そして内輪で忖度を重ねた結果日本が世界の中でオワコンになってしまったこの「失われた30年」。この2つは無関係ではないような気がしているんですよね。
そんなふうに考えて、僕は松本さんに代表されるお笑いのあり方、そしてそのファンの方々とは反対のスタンスを取ってきたつもりです。もちろん松本さん個人については、すごくお笑いのセンスがある方だと思っていますし、義理人情に厚い信頼できる人だとも思っています。でもそれだけでは先に進めないんですよ。
今回のこの本も、最終的にどういう立て付けになるかわかりませんが、「松本人志こそ至高の存在なのに、なんでテレビから消えなきゃいけないの?けしからん!」というような内容だとすると、正直それは古臭いなと思ってしまいます。もうそんな時代じゃないでしょと。
今回の一連の報道に関しては、事実関係がまだはっきりしていないので、僕からは何もコメントできる立場にはありません。ただ、この問題の根っこにあるのは週刊文春だ、というのは違うと思っています。
■週刊文春だけが問題の根っこじゃない
確かに、文春の記事をきっかけに物議を醸すことは多い。でも結局、文春がどれだけ下世話なスクープをしたところで、燃えないものは燃えないじゃないですか。昨年の年末に、文春の元編集長である新谷学さんと対談する機会があったのですが。新谷さんいわく、文春の記事というのは「この人にはこういう一面があります」ということを示すのが役割だと。つまりその先の是非の評価は読者に委ねられているんだそうです。最終的には私たち自身が決めること。記事の受け止め方次第だと。
実際、イギリスでもボリス・ジョンソン前首相が在職中に複数の女性との間に婚外子がいるという報道が出たことがありました。子供の数が確定できないから、ウィキペディアでさえ「3人から6人の間」とか書かれていたほど。でも、それがさほど大きな問題にはならなかった。世間は別に興味なかったんですよ、そういう話は。
僕の友人の成田悠輔くんのケースは真逆でした。最近、彼はキリンの「氷結」のCMキャラクターを降ろされてしまった。理由は彼の過去の「高齢者は集団で切腹すべき」発言が物議を醸したからです。でも、そもそもキリン側はその発言を知った上で起用を決めていたんですよ。にも関わらず、ある時を境に突如として抗議の声が殺到し、そしてキリンはその声に屈してしまった。
つまり何が言いたいかというと、著名人のスキャンダルにおける本当の「ラスボス」は週刊文春ではない、むしろ世間の声なんだということ。敵を見誤ってはいけないなとは思います。